世田谷区軟式野球連盟
東京都軟式野球連盟世田谷支部(世田谷区軟式野球連盟)は、戦後まもない昭和21年頃に、野球が好きでたまらない人たちが区内の本所地区、玉川地区、砧地区の三地区に分かれて40チーム位で区文化係のご協力で大会を運営し始まりました。
しかし、なにぶん用具は少なく、グランドの確保も難しく、区内の各中学校の校庭などを借りて毎週転々としながら試合を消化する状態が続きました。
また、当時の選手たちは戦争が終わったばかりのせいか血の気が多くトラブルの連続でした。
また、毎回グランドが変わるため、会場を作る用具、審判用具などの運搬は自転車が唯一の手段だったようで、用具を荷台に乗せてグランドに行く途中パンクして試合時間に遅れたり、途中雨に降られたり、終了後ベースを荷台に乗せたものの思うように自転車を走らせることが出来なかったりと、想像を絶する苦労があったようです。
昭和24年頃になり、ようやく区役所の社会教育体育係の方々のご協力をいただき、チーム数も増えてきましたが、依然としてグランド事情は思うようにならずジプシー生活が続きました。
昭和28年頃は、今の駒沢球場の場所が使用できましたが砂ぼこりが凄まじく、当時のこのグランドを世田谷のグランドキャニオンと呼んでいたそうです。
昭和32年頃になってようやく羽根木公園、世田谷公園、上野毛公園、総合運動場の各グランドの使用が認められ、安定した場所での試合開催が出来るようになりました。
しかし、参加チーム数が増加し、試合消化に支障がでてきました。
昭和40年代になってようやく、現在の二子玉川の河川敷グランドが完成し、試合消化が楽になりました。
しかしなにぶん河川敷のため雨や風には、なやませられています。
特に台風には泣かされた事が数回ありました。
その時は、会長以下、参加全チームより選手を集め、人海戦術で流されてきた石や木を片付け、ヘドロを取り除き、自分たちで試合が出来るグランドに作り直し、区役所より感謝状をいただきました。
昭和50年代は、連盟運営上特に問題になることはなく、安定した時代でした。
チーム数としてはピークを迎えていました。
平成に入ってからは、グランド付近の住民の方々から車での来場禁止を求められたり、砂ぼこりでグランド移転を迫られたりと、難関の続出でした。
幸い各チームに協力していただき、車は各チーム1台に制限し、グランドは内外野共芝生を張ることで了解をいただき現在に至っています。
少年・学童の部は昭和40年頃から連盟の一員として、最高時には170程のチームが参加していましたが、現在では半減しています。
これは児童数の減少と、小どもを持つ若い夫婦には住めない地区になっているからではないか、と思われます。
これからもこの傾向は続くのではないでしょうか。
これからは、連盟役員一同心を新たにし、進んでまいります。
年間の試合日程は限られていますが、出来るだけ区内にあるチームにご参加いただき、健康作りに、また、野球を通じて各人の親睦を図り、立派な社会人を一人でも多く育てていただくようになることが連盟役員の望みとするところです。
近頃、若い人々の野球離れが言われていますが、私たちが努力していく事を約束しこれからも支部を盛り上げてまいります。
(連盟50周年記念誌 長島副会長の談話より)